脳梗塞とその後の経過

バラル博子
病気の経緯と回復に至った様子を書いて欲しいと、JSS理事の山本さんに言われた。Hiroko Barall
長年生きて来たが、私は病気知らずを自慢にしていた。それがなんらの予兆もなく、2013年の9月に脳梗塞で倒れた。覚えているのは、トイレを出た廊下でひっくり返った、小さな犬が獰猛としか思えない大声で吠え立てた、隣に来ていた我が家でも働いていたハンディマンが飛んで来てくれて救急車を呼び、動かさない方が良いと判断してくれたらしい。毛布で私の体を包んで助けを待っていてくれた。そのあたりからあとは全く記憶にない。入院したことも、どこの病院にどのぐらいいたのか、それさえも覚えがない。それにしてもあと1時間発見が遅くなっていたら、どういうことになっていただろう。私は命拾いをしたのだ。命の恩人は犬のココとハンディマンのデイビッドである。
脳梗塞による後遺症が全くなかった。手足の麻痺もなかったし、話も普通に喋っていた。医師と看護婦からリハビリをするようにと言われて、暫くは家の中で運動器具を揃え、リハビリをした。しかし食欲が全くない。そして辛かったのは眠れなくなったことだった。体重がなんと99ポンドとなり、また入院となった。拒食症障害と診断された。看護婦、見舞客、住み込みのお手伝いさんに、記憶が千切れている私自身の症状を聞いたりした。見舞いの客も力のないドロンとした目で、どんどん痩せていく私の姿を見て、危ないと思った人もいたらしい。日本の友人が私が危篤だとメールを出したから、慌てて古い友達が飛んで来てくれた。
気が沈んだり、無気力で、体がだるく疲れやすい。何にも興味が持てない。食べられない。眠れないと精神科の女医さんに訴えると、拒食症があると鬱病にはなりやすい、できるだけ、楽しいことを考えて、出来るだけ賑やかで明るい友人に家に来てもらうこと、体を動かしなさい、と言われた。抗鬱剤を沢山もらって、気分が少し良くなってきた。しかし眠り薬が入っているのでは、と思ったぐらい眠り続けた。
半年ぐらい気分が晴れない。家にいて、私がもっとも愛おしいココちゃんやこれまた純真に私の事を案じてくれている息子が側にいてくれることさえ、煩わしい。友達にも来てくださった皆さんにも、会いたくないと言ったという。私の性格では、大事な知人や友人にどんな場合でも会っていたい筈である。しかし何に対してもネガティブ状態で、やはり鬱病は簡単に治る病気ではなかった。また3度目の入院ということになった。
一日中気分が落ち込んでいる、体がだるい、何をしても楽しめない、と言ったことが続いている場合、精神的ストレスや身体的ストレスが重なると、脳の機能障害が起きている状態らしい。時々めまいがすると、精神科医にカウンセリングを受ける度に訴えると、12回の電子痙攣(けいれん)治療法を勧められた。月2回、6ヶ月間、ダウンタウンにあるクリニックに通った。精神科のみの患者が来ているはずなのに若い男性、女性が多いのに驚く。見た所とても鬱病患者と見えない。治療がどのように作用するのか解らない(なにしろ静脈注射されて1分もしないうちに寝入りこんでしまうのだ)。24時間食べ物も飲み物も与えられなかったせいか、食べたい、飲みたいと思った。それがきっかけになったのか、始めて食欲がでた。
今年の1月28日、ついに退院した。
私は喋るのが大好きである。順次友達に電話をかけまくった。以前のように、友人と一緒に食べたいと思った。プリンスホテルの桂に誰彼なくお誘いした(車で迎えをしてもらった)。味はあまりわからないけれど、お喋りをしていると食事の喉越しがよく、久しぶりに気分がよく、嬉しかった。
お粥がすごく美味しかった。果物も味がする、庭に咲き誇ってる花も愛でる。ダウンタウンに行くと気が晴れるようになった。パーティーに呼ばれて出かけるようになった。
9月に入って気がついた。病気してから丸2年経った。老いと病が私を苦しめた月日ではあったが、身も心も癒えているようだ。少しづつ体に力がついている。退院時に体重が99ポンドだったのが病気以前と同じ125ポンドになった。(ダイエットを真剣に考えねば・・・これ以上増えたら危ない)。
お喋りと同時に私が好きなのは車を駆って走り回ることだった。残念ながら、今車に乗りたいと思うがライセンスがない。それに80代以上は試験が難しいらしい。だがお手伝いさんが車をリースしてくれたのだ。1ヶ月間フィリピンで走っただけだと言ったので、少し怖くはあるが、その度胸を買うこととして、何処にでも連れて行ってもらうことにしよう。
私はラッキーだった。ありがたいことに生還したのだ。老後を元気に生きるには、栄養バランスのいい食事をすること、たくさん水を飲む、良く眠る、そして機嫌よく、怒らないで生きることである。