カトウ・シンコ・メアリーさん(旧姓 ナガタ)から学んだ人生のヒント

メーガン・タナカ。
セントジョン救急医療団体のセラピー犬活動の一環として、私は愛犬のサムソンとともに週に一度、介護施設を訪れています。サムソンは、施設入所者から可愛がられるのを喜ぶと同時に、入所者の中にある悲しみや孤独感をも感じ取ります。介護施設への訪問は、私たちにとって精神的に重いものですが、訪問先で会う初対面の人々が友人になり、友人から家族のようになっていく体験は、心が温かくなり、励みにもなり、また、元気づけられるものでもあります。カトウ・シンコ・メアリーさんは、そんな家族のような関係になった入所者の一人です。

シンコさんが日系人であったことと、私自身の祖父母も同じく日系2世であったことが、私を彼女へと引き込ませました。シンコさんは、1922年にブリティッシュコロンビア州のバンクーバーで、ナガタ・シンコ・メアリーとして生まれました。ナカという名の母親は、バラード入り江近くにある、バンクーバー東の2330 Wall Streetに住み、その前庭を柵で囲ってシンコさんと6人の兄弟を育てました。母親は子供たちに日本語、日本料理、日本文化を教えましたが、同時に白人文化も理解するようにと教えました。シンコさんの父親であるシチタロウ氏は、日系企業のクイーンシャーロット木材店に勤めていました。日本がパール・ハーバーを攻撃した夜、この勤務先が理由でカナダ警察がナガタ家に来て、父親を「敵対外国人」として逮捕しました。シンコさんと妹のルース・フサコさんは、ブリティッシュコロンビア大学を退学せざるをえなくなりました。一家は、ペットの犬とカナリアを置いて家を出ることになりました。
驚くべきことに、シンコさんの人生についての記録が多く残っています。父シチタロウ氏が捕らわれているあいだに、シンコさんとその家族が政府関係者に当てて書いた手紙は、Landscape of Injusticeという学術誌において紹介された学術記事“Our Appreciation for All Your Goodness and Kindness”: Power, Rhetoric, and Property Relations in the Dispossession of Japanese Canadians.(「あなたの良心と親切への感謝」:日系カナダ人の剥奪における権力・修辞・資産関係)で取り上げられています。2012年、ブリティッシュコロンビア大学は、1942年に退学せざるを得なくなった日系の学生76名に名誉学位を与え、シンコさんと妹のルース・フサコさんにも授与されました。シンコさんの体験は、記念アルバム「Return」と、授与式に寄せて制作された「A Degree of Injustice」というドキュメンタリーでも取り上げられました。学位授与記念式典について書かれた記事のほとんどで、シンコさんのことが取り上げられています。彼女の体験は、「時勢の代表例」として書かれています。シンコさんは脚光を浴びたいわけではありませんが、多くの記者や映画製作者に彼女のことが取り上げられたのは、偶然によるものではありません。それはむしろ、彼女の豊富な情熱と、識見と、人生に対する素晴らしい考え方によるものなのです。ブリティッシュコロンビア大学の図書館蔵書に保管されている、シンコさんのインタビュー映像をご覧いただければ、何故彼女がこんなにも多くの人々を勇気づけたかがお分りいただけます。
私が訪れた介護施設の入所者の多くは憂鬱になっています。彼らは、施設のスタッフと食事に不満を持っています。しかしシンコさんが言うには、スタッフは、ピーナッツバタークッキーを作るのを手伝ったり、生地を捏ねる作業を利用することで、リウマチを患った手を動かすための運動にするなど、とても工夫してくれているというのです。私が出会った他の入所者は、家やペットが恋しいとか、今は亡き人たちと昔やったことができなくて悲しいと話します。シンコさんも、寂しく思っていることについて話してくれます。70年以上住み慣れた家や、亡くなってしまった愛する夫と愛犬。トロントから何時間も離れた場所に住む息子や娘。香港に移住してしまった可愛い孫娘。新年を家族みんなで家でお祝いしたことも、もうできないのが寂しいと話してくれます。しかしシンコさんは他の入所者と違い、物事の良い面を見ようとします。彼女は、トロントに住む娘さんがとても熱心に世話を焼いてくれること、他の孫たちが大学が休みになると必ず会いに来てくれること、兄弟姉妹がお祝いを送ってくれること、そして、犬のサムソンと私が会いに来ることが、どれだけ彼女にとって大切かを話します。最近、転倒でひどい怪我をされましたが、ほとんど気にしていません。彼女はそれよりも、私の赤ちゃんと私の健康の方を心配しています。
初めて会ったときに彼女が最初に言ったことは、いかに多くの人が老いに悩まされているかということでした。若い頃は、どんなことでも予定通りに済ませることができます。しかし歳をとると、他人の助けを借りなければ物事を済ませることができず、他人の予定に従ってなんでもすすめなければいけないことを、認識しなければなりません。彼女は言います。「忍耐よ。辛抱強くならなきゃだめ。」バンクーバーでの子供時代について話すとき、彼女は目に涙を浮かべます。家族のことを話すとき、それは喜びの涙です。しかし小学校時代のことを思い出すと、その涙は傷心の涙に変わります。日本名と日本の着物のために、彼女は馬鹿にされました。「小さな谷の農夫」遊びで名前を呼んでもらうことは決してありませんでしたし、石蹴り遊びの仲間には入れてもらえませんでした。90年経った今でも、思い出すと辛いのです。しかし彼女は言います。だからこそ、他人の気持ちを理解したいと思うのだ、と。幸せの秘訣を聞くと彼女は答えました。「毎日いいこと探しをしなさい。そして明日を、明日あるかもしれない嬉しい驚きを、楽しみにしてなさい。たとえば、あなたが会いに来てくれるとかね!」それを聞いた私の目は涙で溢れていました。彼女に会う度に、私は伝えます。私の人生は、彼女のおかげで良いものになったと。
シンコさんは、3月10日に96歳になるのを楽しみにされています。そして私は、彼女のお誕生日を一緒にお祝いしたいと思っています。